上古の本殿、高さ96メートル
海からの目印とも 出雲、神話から表舞台に
◆銅剣、銅鐸の出土がきっかけ
近年の考古学の成果は、どうやら神話の国・出雲(島根県)を現実の有力な「くに」として表舞台に引っ張り出したようだ。そして、現在高さが八丈(24メートル)しかない出雲大社本殿は、かつては32丈(96メートル)あった、という社伝の話が検討課題になりつつあるようで、まことに結構なことである。卑弥呼の邪馬台国と大和朝廷しか出てこない歴史話にはうんざりだ。出雲大社を通して出雲をちょっと覗いてみる。
直接のきっかけは、96年10月14日以来、島根・加茂岩倉から39個(入れ子含む)の、桁外れの数の銅鐸の発見だが、実は84年夏には加茂岩倉からわずか3.4キロしか離れていない、人里離れた神庭荒神谷(かんばこうじんだに)から、これも桁外れの358本の弥生銅剣が発見され、一年後にはすぐ近くから銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣の数は分布図を完全に塗り替えるもので、大いに話題になったが、邪馬台国しか頭にない考古学者が多いせいもあって、大和あるいは近畿から持ち込まれたもの、とする意見が多く、本格的な議論の対象にならなかった。
古事記、日本書紀に、大国主神の国譲りも含めてたくさん話が出てくるが、その時代の遺跡からの出土品などにあまり見るべき物がなかったせいで、あくまで神話だけの国、という捉え方をされてきた。しかし、遠慮がちではあるが、銅鐸発見以後は、出土した銅剣、銅鐸は地元でつくられたものもあるのでは、と主張されるようになった。銅鐸発見の衝撃は極めて大きかった。
◆朝廷が気にする有力社会か
銅剣、銅鐸が出雲でつくられたとすると、必然的に有力な社会の存在が想定される。邪馬台国=大和朝廷かどうかはわからないが、出雲は中央政権にとって非常に気になる「先進国的」存在だったのかも知れない。それで、記紀にわざわざ「国譲り(推定6世紀後半)の話」を載せた、とも考えられる。それで、32丈の可能性が現実味を帯びてくる。社伝には「上古は32丈、中古は16丈(48メートル)」とある。平安中期の書物「口遊(くちずさみ)」の物の大きさ述べている大屋(たいおく、ここでは高さ)の項に「雲太和二京三」と、あるのだという。太は一位を示すから、つまり雲は出雲大社、和は奈良・東大寺の大仏殿、京は京都の大極殿である。現在の大仏殿は元禄5年建造だが、約47メートルの高さは創建当時と変わっていない。出雲大社は鎌倉時代中期の造営以後、縮小傾向となり、江戸時代になって松江藩主によって現在の本殿(大社造り、国宝)の規模になった。口遊の記述を認めれば、鎌倉中期までは大仏殿より出雲大社の本殿の方が高かったのだ。
さらに、平安中期から鎌倉初期までの200年間に、本殿が地震、台風でもないのに6回も倒壊していることがいろいろな記録から確かめられている、奈良時代・平城京の東大寺と大安寺には約100メートルの七重の塔がそびえていた、などから本殿の32丈は不思議はない、とする主張も出されている。でも、神社が高さを誇ったことはないのでは−−。
◆96メートルはムリと復元図は48メートル
出雲の「くに」が盛んで日本海の交易の中心地だったとき、海からの目印として利用されたのでは、とする。それなら高ければ高いほど良く、「くに」の威信を示せる。国譲りに際して、国つ神の大国主神を祭り、どこも真似られない神社としたのでは、という。
ただ、32丈は木造建築では不可能との大勢の見解から、16丈について福山俊男・京大名誉教授が最初に復元図をつくり、次いで大林組が構造計算などして16丈は建設可能とした。本殿へ登る階段を引き橋というが、大社宮司家の内部資料(多分中古の)では底辺の長さが「長一町(約109メートル)もある。大林組もこれを採用して、復元図を描いている。全高約40メートル、本屋一辺約12メートル、大床幅柱芯から約4.5メートル。
島根県古代文化センターが福山名誉教授の監修で大林組の設計図を基に16丈の復元模型をつくっているが、実に楽しい(失礼)建物だ。それが、倍の高さだったら、背中がぞくぞく、ですね−−。
◆大国主神は正面に向かわず
ところで、本殿の大国主神は西を向いている。正面を向いているのは、古事記の最初に出てきてすぐお隠れになる五柱の天つ神(天照大神系)である。中央の圧力で祭らざるを得なかったのだろう。正面から拝むのは天つ神を拝むことになるのかも。国譲り=負けることは厳しいのです。